『noがyesなら、yesはno?』
※歌詞考察をお望みの方は回れ右して下さい。
※ちょっとした小ネタみたいなやつです。
最初に聞きましょう。
『津島善子は堕天使であると同時に、津島善子は堕天使ではない。』
この文は正しいと思いますか?
in this unstable worldの歌詞に、『noがyesなら、yesはno?』という歌詞があります。
この歌詞、漠然とでも「変だな・・・?」って思った人、多いですよね。
その漠然とした疑問はおそらく以下の考えから導かれるものだと思います。
それは、
ある事に対して『NO』でありながら『YES』となる物なんて存在しないのでは?
という考えです。
「スイートポテトの霊は存在する。
と同時にスイートポテトの霊は存在しない。」
こんな文を見たとしたら、こう思うはず。
「矛盾してる!」と。
その通り、『〇〇である』という文が正しいと同時に正しくないということは起こりません。
論理学には無矛盾律というものがあります。
ある命題とその否定命題が同時に成り立つことはない、ってのが簡単な説明です。
昔の偉い人(アリストテレスさん)がそう言ったんですね。
逆転裁判とか逆転検事とかやったことある人だと『矛盾』って言葉たくさん聞くと思います。
証拠品と証言を比較して明らかにおかしな点があれば「つきつける」。
そうやって矛盾点を見つけ出して、その矛盾がどうして起こったのかを推理しながら真犯人を探したり追い詰めたりします。
このように、言葉と言葉だけでなく、現実世界と言葉に対しての食い違いにも『矛盾』という言葉が使われることがあります。
しかし、論理学における矛盾ってちょっとだけ違うんですね。
例えば、他の文は存在しないというもとで、
『鹿角理亞が鹿角聖良であるならば、渡辺曜は桜内梨子である。』
こんな頭のおかしい文がたった一つだけあるとします。
これが矛盾していないことはわかるでしょうか。
『ならば』の前と後がどれだけ頭のおかしなことを言っていようとも、文全体としてはアニメ等の世界と照らし合わせてみても何も食い違ってはいません。
では、次にこちらを。
同様に他の文は存在しないというもとで、
『鹿角理亞が鹿角聖良ではないならば、渡辺曜は桜内梨子である。』
こんな文があった場合、これは矛盾しているのでしょうか。
アニメ等の世界と照らし合わせてみると・・・。
あれ?って思いますよね。
でも実はこれも矛盾していません。
なぜかというと『矛盾する』他の文が無いからです。
如何に「常識的にこうだろ!」とか「アニメ見たら当たり前だろ!」と言えども
論理学的にはそれを記した文が無ければ何の意味もないわけです。
今挙げた『鹿角理亞が鹿角聖良ではないならば、渡辺曜は桜内梨子である。』という文がおかしいことを導くためには、以下のステップが必要になります。
①鹿角理亞は鹿角聖良ではない ということを証明する
➂ということは『鹿角理亞が鹿角聖良でない』場合でも『渡辺曜が桜内梨子でない』場合が存在することが導き出せる。
➃よって『鹿角理亞が鹿角聖良でないならば、渡辺曜は桜内梨子である』という文は間違っている。
(正確にはもう少し段階踏むんだけどこれで理解してもらえると思うし許して)
こんな感じになります。
要するに、明らかにおかしな文章でも、それに関する文章が他に存在しなければその文章がおかしいことを導き出すことはできない、ってことになります。
例を挙げましょう。
『ああああ ならば いいいい である。』
この文が論理的におかしいことは証明できないんです。
ちなみにこの『ああああ』と『いいいい』は言い換えとかじゃなく、ちゃんと意味を持った私が作った新しい言語です。
見た目で『ああああ』や『いいいい』に意味があるとは思えないし、
おかしいことは一目瞭然なんだけど、それでも論理学的におかしいことは証明できない。
じゃあこうすればいい。
『ああああ ならば いいいい ではない。』
こう新たに言ってしまえば矛盾が導き出せます。
しかし、この場合矛盾が導き出せただけでどちらが正しいかまでは説明できません。
このように、意味不明な文字列を文に入れてしまっても、その文章が間違っていることを証明できないんです。
さて、ここで最初の方に紹介した『無矛盾律』についておさらいを。
ある命題とその否定命題が同時に成り立つことはない。
これが無いと何が起こってしまうのか考えます。
つまり、こういう主張が許されるようになります。
『ああああ であると同時に ああああ ではない。』
こんな感じの文章、この記事を読み始めたときに見ましたよね。
さて、では冒頭の文に戻りましょう。
『津島善子は堕天使である と同時に、津島善子は堕天使ではない。』
無矛盾律という縛りが無いなら、この主張は許されます。
では、この場合『津島善子は堕天使であるか?』という問いがあったとして、どう答えればいいでしょうか。
答えは、『YESでもNOでもいい』です。
つまり、無矛盾律が排除された世界では、何の違和感もなく『noがyesなら、yesはno?』という歌詞を飲みこむことが出来るわけです。
さて、では本題に入りましょう。
『津島善子が堕天使である と同時に、津島善子は堕天使でない』が正しい文であるとするならば、何が起こるのか。
その答えの一例を挙げましょう。
これらが全部正しいことになります。
試しに、あなたの「〇〇は××であってほしいな」、という煩悩を一つ考えてください。
ちゃんと考えました?
それも正しいことになります。
何を言っているんだって感じですよね。
では、挙げた例の中から『浦の星女学院は廃校しない』を証明します。
では、新たに次のような文を用意します。
『津島善子が堕天使である、または、浦の星女学院は廃校しない』
この文は正しいでしょうか。
答えは、正しいです。
津島善子は堕天使である、という言葉は前提に含まれてます。
ならば、『または』以降の文が正しいか正しくないかに関わらずこの文全体は正しいです。
では、以下の二つの文を見てみましょう。
『津島善子は堕天使である、または、浦の星女学院は廃校しない。』
『津島善子は堕天使ではない』
上の文が正しいことは先程証明した通りです。
下の文は前提に含まれているため、正しいです。
気付いたでしょうか。
この2つの文を合わせて考えた場合、
『津島善子は堕天使である、または、浦の星女学院は廃校しない』が正しく、
『津島善子は堕天使ではない』も正しい。
ということは・・・?
『浦の星女学院は廃校しない』が正しいと言うことになります!
これで晴れて浦の星女学院が廃校しなくて済みますね。
・・・というように、無矛盾律を排除して物事を考えると、
同様の方法を用いて『どんな命題でも真にすることができる』とかいう恐ろしいことが起こるんです。
このことについてもっと詳しく知りたい方は『爆発律』、『矛盾許容論理』で調べていただけると詳しいことがたぶん分かります。
さて、皆さん最初の『津島善子は堕天使であり、同時に津島善子は堕天使ではない』という文が正しいか、という問いにどう答えたでしょうか。
もしあなたが『正しい』と答えたならばあなたは最強です。
無矛盾律の無い世界に住むあなたは、言うこと全てが『正しい』ことにできます。
こんな不可思議な力を持つあなたは・・・堕天使ヨハネ様に気に入られること間違いなし!?
というのはどうでしょうか。(byらくとあいす)